蔦文也監督の妻と息子は?後世に残る名言と名監督と称される理由

徳島県立池田高等学校の野球部を率い、“阿波の攻めダルマ”と称された蔦文也(つたふみや)監督。

今回は、蔦文也監督の奥様と息子さんや、その名言と名監督と称される理由に迫ります。

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■蔦文也監督の妻と息子

蔦文也監督の奥様は、キミ子さんという女性です。

蔦監督は阿波池田の名家の出身で、キミ子さんは農家出身でした。

家の格の違いから、親族たちは反対しますが、その反対を押しきって、当時は珍しい恋愛結婚をします。

キミ子さんは、結婚直後の27歳から野球部員の面倒をみるように。

自宅近くに寮を作り、50人近くの部員を預かることとなります。

長女がお腹にいて生まれる直前まで、台所で日々の食事の切り盛りをしていたキミ子さん。

蔦監督との間に、4人の子供に恵まれます。

息子の泰見さんは、

一家団らんはまったくなかった。家族旅行も行ったことがない

とコメントされています。

息子さんは、映画プロデューサーもしています。

家族旅行・夫婦旅行もせずに、自分のことは後回しで、蔦文也監督を支えたキミ子さん。

2015年2月3日、91歳で他界されました。

■蔦文也監督の名言

蔦文也監督はいくつかの名言を残しています。

1つ目は、

ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切り、のびのび打ったらええんじゃ。

という言葉。

1982年に残された言葉ですが、時代を象徴するような大らかな名言です。

2つ目は、

山あいの町の子供たちに1度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ

という名言です。

こちらは、池田高等学校の校門横の石碑に刻まれているそうです。

3つ目は、

負けることは不名誉なこととは考えません。不名誉なことは、負けることによって人間が駄目になってしまうことだ

というもの。

「人生は敗者復活戦ぞ!」

という言葉も残されていますが、太平洋戦争中、特攻隊員だった蔦監督の人生観を表すような言葉だと思います。

■名監督と称される理由

蔦文也監督は、

「高校野球を変えた」

とされる名監督です。

1952年から92年までの約40年間、池田高校の野球部を率いました。

甲子園へと15回導き、優勝3回、準優勝2回の成績です。

中でも、82年夏、83年春の連覇では、金属バットの特性に着目した筋力トレーニングを背景に、

「やまびこ打線」

と称された、圧倒的な攻撃力を示しました。

■まとめ

蔦文也監督は、お嫁さんであるキミ子さんと二人三脚で、池田高等学校の野球部を支えました。

時代を象徴するような大らかな名言を残し、「やまびこ打線」と称される名言通りの大らかな野球を展開します。

人々の記憶に残る野球をした名監督でした。

2001年に肺がんで没した蔦監督の自宅は、今でもJR阿波池田駅の近くに残っているそうです。