読売ジャイアンツに所属する、「どすこい」投手の山口俊(やまぐちしゅん)選手。
今回は、そんな山口投手の高校時代のお話です。
■高校時代は大分の名門・柳ヶ浦
山口俊投手は、大分県中津市の出身。
幕内力士の父の影響で相撲をやっていましたが、野球は、小学校3年生の時に地元の軟式野球チーム『太陽クラブ』で始めました。
中津市立豊陽中学校では、3年夏に県大会で優勝。
高校は大分県の名門・柳ヶ浦高校へ進みました。
■高校1年生、夏の甲子園大会
2003年の夏の甲子園大会。
山口俊投手は、1年生ながら背番号「11」でベンチ入りし、初戦の常総学院戦でいきなり登場します。
6回の裏、0‐2とリードを許した状態からリリーフで登板し、2回を投げ、打者7人に対し被安打は1のみ。
奪三振こそ0でしたが、強豪・常総学院の打線を無失点に抑えこみました。
試合は1-2で敗れましたが、この大会で、常総学院は優勝しています。
■高校2年生、夏の大分県大会
高校2年生の高校野球大分県大会、柳ヶ浦は準決勝で明豊と当たると、9回二死まで3-0とリードします。
しかし、そこから四球などで満塁のピンチを招くと、押し出しのフォアボールと自らのエラーなどで同点。
最後は2ストライクから左中間を破られ、サヨナラ負けとなりました。
外角低めのつもりが高くいった。三振を狙ったボールを打たれたのは僕の力不足です
こう話した山口投手は、それから3日間は何も考えられなかったそうです。
しかし、父親の山口久(元幕内・谷嵐)さんに、
これがお前の実力。やらんといけんことが分かったか
と言われ目を覚ましました。
■高校2年生、秋の明治神宮大会
生まれ変わった山口俊投手は、苦手だったランニングなども精力的にこなし、一気に力をつけました。
そして迎えた秋の九州大会で優勝。
その勢いのまま全国大会も勝ち上がり、並み居る強豪を抑え、明治神宮大会も優勝を飾りました。
■高校3年生、春の甲子園大会
前年秋の活躍により、主役に祭り上げられていた柳ヶ浦高校と山口俊投手。
初戦の天理高校戦では、ストレートで最速151キロを記録し、観衆の期待に答えました。
しかし、試合巧者の天理打線につかまり、ゲーム自体は0-4で敗戦しています。
■高校3年生、夏の大分県大会
山口俊投手にとって、最後の大分県予選。
優勝候補筆頭の柳ヶ浦は順当に勝ち上がりましたが、準決勝の別府青山戦で、山口投手は右ヒジ痛を発症し、緊急降板します。
残されたチームメイトもよく粘りましたが、延長10回の死闘の末、1-3で惜敗。
山口投手の高校野球は、ここで終わりを迎えました。
■素行は問題なかった?
横浜時代は金髪で登場したり、酒癖の悪さが指摘されたりする、山口俊投手。
高校時代はどうだったのでしょう?
高校時代の情報はありませんでしたが、卒業してプロ入り後すぐの様子は、横浜の寮長がこう話しています。
時間通りきちんと三度の食事をするし、礼儀も正しい。父親にプロの厳しさを叩き込まれているからでしょう
横須賀の二軍練習場で、自由時間はよくランニングをしていたという山口投手。
この頃は少なくとも、とてもお行儀が良い選手だったようです。
■まとめ
これまで見てきたように、山口俊投手のような逸材でも、甲子園では一勝もできていないことが分かりました。
甲子園には魔物が棲む
とは、昔から語られること。
しかし、魔物のせいで番狂わせが起こるからこそ、高校野球は面白いのかもしれません。
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