2018年1月4日、“闘将”星野仙一さんが亡くなりました。
今回は、そんな星野さんの高校時代を振り返ります。
◆高校時代のポジションと打順は?
星野仙一さんは、岡山県にある倉敷商業高校の出身。
ポジションはピッチャーでしたが、1年時には2学年上にエースの宮原勝之投手が君臨していました。
宮原投手は、巨人からドラフト指名を受けるも断り、法大から当時の本田技研に進んだ本格左腕です。
“宮原さんの真っすぐとカーブを見て、ボコ~ンと殴られた気がした”
しかし、宮原投手が抜けると、2年生からは星野さんがエースの座を確保しました。
打順も3年時には4番を任されており、倉敷商業の投打の中心選手であったことは間違いありません。
◆甲子園出場は?
当時の倉敷商業は、強豪というよりは二番手グループに位置する実力でした。
しかし、星野さんが入学するとチームは徐々に強くなり、3年の夏、東中国大会の決勝まで駒を進めます。
決勝戦の相手は、鳥取県立米子南高等学校。
当時は、1県1代表ではなく、岡山県と鳥取県で1枚の切符を争っていたのです。
実は前年の11月、両校は練習試合を行っており、倉敷商業が16対0で7回コールド勝ち。
このため、8カ月後に行われた地区予選決勝も、下馬評は完全に倉敷商業でした。
しかし結果は、2対3で敗北。
米子南000 300 000=3
倉 商010 000 010=2
400人の応援団が凍りつき、負けた実感がわかず、涙も出ませんでした。
しかし、片手が届いていたかに見えた甲子園出場への夢は、確実に足元から崩れ去ったのでした。
◆高校時代の恩師
星野仙一さんは、水島中学3年の頃にはすでに県内で知られる存在でした。
そして高校進学については、
“倉敷工業に行こうと思ってた。強豪だし、3年間で最低、2回は甲子園に行ける”
しかし3年生の冬、黒縁の眼鏡をかけた短髪の紳士が自宅にやってきます。
その方が、倉敷商野球部の角田有三部長でした。
“星野君、君の力で倉商を甲子園に連れて行ってくれ”
もの静かな印象の角田先生でしたが、訴える口調に迫力があり、星野さんは倉敷商の校門をくぐります。
もう一人、倉敷商の矢吹恬一監督も人生の師となりました。
星野さんが明治大学に進学したのは、
“オレの出身だ。明治へ行け!”
と、矢吹監督に言われたためです。
矢吹監督は80歳となってからも、星野監督の兄貴分として付き合いがありましたが、角田部長は86歳で亡くなっています。
◆学校の成績は?
星野仙一さんは高校時代、数学が大の苦手。
しかし、倉敷商業は県立高校という事もあり、4番だろうがエースだろうが、とにかく40点以上取らなくてはいけませんでした。
しかし、星野さんが計算が苦手なのには、理由がありました。
あまりに手が大きく、指が太いため、そろばんを正確にはじけなかったのです。
そんな星野さんが無事に進級できたのは、幸運にも、そろばん部の部長が前の席に座っていたため。
“そっと脇を空けて答案を見せてくれた”
星野さんが野球をできくなるのは困ると言うのは、倉敷商全体の共通認識だったのですね(^_^;)
◆まとめ
星野仙一さんは晩年、こう語っています。
“甲子園に行けなかったのが、逆に良かったな”
甲子園で挫折したことで神宮を目指し、神宮の次はプロへと、夢がどんどん大きく膨らんだのです。
プロ入り後も監督就任後も、星野さんを動かし続けたエネルギーは、高校時代に蓄えられたものだったのでしょう。
星野さんのご冥福をお祈り申し上げます。
◇編集後記
星野仙一さんが、阪神タイガースの監督に就任したことを記念した腕時計がこちら。
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タイガースカラーのイエローがアクセントになっていますね。
背番号と同じく、国内限定77本という、非常にレアな逸品です(^_-)
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