ガッツポーズとハザマ節で話題の明石商業・狭間善徳監督。
今回は、そんな狭間監督を支える『家族』にスポットを当て、ご紹介します。
【本人プロフィール】
名前:狭間善徳(はざま・よしのり)
生年月日:1964年5月12日
年齢:55歳(2019年8月19日)
最終学歴:日本体育大学
◆実家は明石市
狭間善徳監督は兵庫県明石市の出身。
小学校は明石市立花園小学校なので、実家もこの辺りなのでしょう。
小学校1年の時、当時のスーパースター・長嶋茂雄さんにあこがれてソフトボールを始めたのが白球との出会いでした。
中学校は明石市立望海(ぼうかい)中学校、高校は兵庫県立明石南高等学校へ進みました。
高校時代の野球部の監督は、浦井監督。
なんと、現・明石商の浦井佑介部長のお父上に当たる方です。
そして、浦井監督に勧められたことが、のちに指導者となるきっかけとなりました。
大学は、日本体育大学に進み、内野手として活躍。
大学卒業後、1988年に母校の明石南高でコーチに就任し、指導者人生をスタートさせました。
◆最愛の妻の言葉
妻の言葉①
狭間善徳監督の奥さんは、狭間監督の野球人生に、大きな影響を与えてきました。
明石南のコーチを経験した後、一時期は明石市内の団体職員に転身していた狭間監督。
奥さんとの結婚を控えた時期であり、生活の安定のことを考えたのでしょう。
しかし28歳のとき、高知県の強豪・明徳義塾から勧誘を受けると、狭間監督の心は大きく揺らぎました。
そのとき、当時婚約者だった奥さんは、
ネクタイ姿よりユニホーム姿がいい
と一言。
この言葉に背中を押され、狭間監督はふたたび勝負の世界へ飛び込んで行きました。
妻の言葉②
明徳義塾中学で4度の全国制覇を成し遂げた狭間監督。
次第に九州や東北の高校・大学から監督のオファーが来るようになりました。
もともと、高校野球に関わりたいと強く考えていた狭間監督ですが、明徳義塾高校には名将・馬淵史郎監督がいるため、その望みはありません。
そして、東北の学校からのオファーがまとまりかけたとき、奥さまはこう言いました。
東北より明石に帰りたい―――
実は奥さまも明石の出身だったのです。
そうして、明石市の指導者公募に応募した狭間監督は、2006年から、念願の「高校野球指導者」として歩み始めたのでした。
◆娘の言葉
狭間善徳監督には、娘が一人います。
2016年5月時点で大学生ということなので、もう卒業されているかもしれません。
野球部の練習帰りに、娘をアルバイト先に迎えに行ったり、お土産を買って帰ったりするのだとか。
部員には厳しくても、娘には激甘のようですね(^_-)
エースの中森投手を温存した時には、娘さんから
中森くんを出さなくて負けたら何か言われるよ
と、心配されるのだそうです。
◆父親と行った甲子園
狭間善徳監督と甲子園の出会いは小学生のとき。
父親に連れられて、江川卓投手がいる作新学院の試合を見に行きました。
外野席は身動きが取れないほど満員で、1球ごとに球場が揺れていました。
以来、狭間監督にとって甲子園は、何回でも行きたくなるわくわくする場所となったのでした。
◆まとめ
これまで見てきたとおり、狭間監督の活躍の陰には、温かく支えてくれた『家族』の姿がありました。
これからも家族の応援を胸に、狭間監督の挑戦は続いていきます。
ガッツポーズを最愛の妻と娘に捧げるために…
コメント