プロ野球選手として活躍した、村田兆治さん。
マサカリ投法で有名です!
今回は、そんな村田さんを取り巻く『家族』の物語です。
生年月日:1949年〈昭和24年〉11月27日
身 長:190cm
血液型 :AB型
出身地 :広島県豊田郡本郷町
◆実家・生い立ち
村田兆治さんは、広島県豊田郡本郷町の出身。
小学校は地元の、本郷町立南方小学校へ通いました。
小学校ではソフトボールに夢中になり、小学校の卒業文集には、
野球せんしゅになりホームラン王になってみたい
と書いています。
中学校は、本郷町立本郷中学校へ進学。
中学校では野球部に入りましたが、最初のポジションはキャッチャーでした。
捕手が一番ボールに触る機会が多いでしょ。投手が投げたら捕って返して、指示も出せる
というところに魅力を感じます。
しかし、当時のピッチャーは「ここに投げろ」と指示しても、そこに投げられずに打たれていました。
たまりかねた村田さんは、
俺が投げる
と言って、投手にコンバート。
投手・村田兆治の誕生です✨
高校は、福山電波工業高等学校へ進学。
高校時代から、
スピードガンがあればその球速は既に152~3 km/hをマークしていただろう
と言われ、県内でも屈指のピッチャーとして有名でした。
しかし、当時の広島県には、広島商、尾道商、広陵など強豪がひしめいており、甲子園出場の悲願は叶いません。
それでも当時、広島カープのスカウトから間接的に「ドラフト1位で指名する」と伝えられていたため、
カープに入れる
と喜んでいました。
しかし、ドラフトで先に1位指名したのは、東京オリオンズ(千葉ロッテマリーンズ)。
当時のドラフトのルールにより、村田さんはオリオンズでプロ生活をスタートさせています。
◆父親
村田兆治さんの父親の名前は、村田与行(むらた・よしゆき)さん。
職業は、広島県の職員で、のちに本郷町の町議などを務めました。
「兆治」と名づけたのも、父・与行さん。
兆は億の万倍で、日常、兆以上の単位が使われることはありません。
だから「この世で最高の男になれ」という意味で名付けられました。
村田さんがプロ野球選手を志したのは、小学4~5年のとき。
父に連れられて、広島市民球場へナイター観戦に行ったことがきっかけでした。
初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、それ以来、プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったのでした。
◆母親
村田兆治さんの母親は、「自分の道は自分で切り開きなさい」という考えの持ち主。
しかし突き放すだけではなく、村田さんが打たれて落ち込んだときは、明るく優しく接してくれました。
夏の練習で食欲が落ちたときは、のどを通りやすいものを作ってくれます。
勝ち投手になれば「よかったね」と電話を掛けてきて、
今日のピッチングは俺が求めているものとは違うんだ
とグチっても、「じゃ次に頑張ればいい」と受け止めてくれました。
そんな一言で励まされたり、気持ちの切り替えができたことも少なくなかったと言います。
お母さんは、現役生活23年間の最後のマウンドとなった引退試合を見に来てくれ、試合後に、
よく頑張ったね
と声を掛けてくれました。
決断するのも自分、頑張るのも自分
それを無言で背中を押して教えてくれたお母さんは、99歳で天国へ旅立ちました。
最後は笑顔で旅立っていったそうです。
◆4人兄弟の第3子
村田兆治さんは、4人兄弟の第3子で次男に当たります。
一番上はお姉さんで、続けて兄、村田さん、弟の順番です。
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