オリックス・バファローズに所属する、吉田正尚選手。

三振しない男と呼ばれてます!
今回は、そんな吉田さんを取り巻く『家族』の物語です。
生年月日:1993年〈平成5年〉7月15日
身長体重:173cm/85kg
血液型 :B型 [1]
出身地 :福井県福井市
◆実家・生い立ち
吉田正尚さんは、福井県福井市の出身。
小学校は地元の、福井市麻生津(あそうづ)小学校に通いました。[2]
6歳で麻生津ヤンキースに入り野球を始めると、すぐに野球漬けの生活となります。
チームの練習は火曜から日曜までで、休みは月曜のみですが、その休みも友だちと野球。
学校の休み時間も、ピンポン球とホウキを使い、野球をして遊んでいました。
小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「大リーガー」です。
中学は地元の、福井市足羽(あすわ)中学校へ進学。[3]
チームは鯖江ボーイズに入りました。
中学時代は、身長170cmに満たなかった吉田さん。
その体から放たれる長打力に驚かされたのが、敦賀気比高等学校の東哲平監督です。[4]
吉田さん自身、敦賀気比への進学を希望していたこともあり、同校への進学はあっさりと決まりました。
東監督は、

1年ですぐに4番を打つ準備をしておいてくれ
と、伝えたと言います。
有言実行で、敦賀気比で1年生から4番に座った吉田さんは、監督の期待にこたえて打ちまくります。
吉田さんの活躍もあり、1年夏と2年春は甲子園に出場。
しかし高校時代の後半は、かなりマークされていたこともあり、バットに陰りが見えていました。
高校卒業時はプロ志望届を出さず、青山学院大学へ進学します。[5]
大学でも1年生から4番に座り、東都リーグの1部で、通算72試合に出場。
2年先輩の杉本裕太郎(すぎもと・ゆうたろう)さんと、アベック砲を3回記録しています。

大学通算では、278打数77安打、打率.277、9本塁打、38打点、12盗塁という成績を残しました。
また、日本代表からも声がかかり、
- 第39回日米大学野球選手権大会(大学2年)
- 第27回ハーレムベースボールウィーク(大学3年)
- 2015年ユニバーシアード(大学4年)
にそれぞれ出場しています。
◆家族構成
吉田正尚さんの実家の家族構成は、父親、母親、兄、正尚さんの4人家族です。
自身は2017年に結婚しており、奥さまと娘2人の4人家族です。
◆父親の職業は?
吉田正尚さんの父親の名前は、吉田正宏さん。[6]
1959年頃の生まれになります。
父・正宏さんは、名古屋の大学を卒業後、地元のJAに就職。
野球の経験はありません。
それでも、野球を始めたばかりの吉田少年の“練習パートナー”として、息子の成長を支えました。
小学校の高学年になると、

家でも練習したい!
という息子のために、庭の木と木の間にネットを張って、ティー打撃をしました。
冬は雪が積もるため、車庫の中にもネットを作りました。
吉田少年が、

バッティングセンターに連れて行ってほしい
といえば、車で15分ほどの「北陸バッティングセンター」に通いました。
吉田さんの野球人生は、お父さんの支援なくては成り立たなかったでしょう。
◆母親の支援
吉田正尚さんの母親の名前は、吉田仁子さん。[7]
年齢は、お父さんより1歳年下になります。
母・仁子さんも、吉田さんの競技人生を支えてくれました。
実家にいる中学までは、ユニホームやスパイクの準備は母親まかせ。
学校に遅れそうになると、車で送ってくれたりしました。
どちらかと言えば優柔不断だった吉田さんを、お母さんはうまくサポートしてくれたのです。
2021年の母の日。
吉田さんは母の日限定のピンクのバットで、4安打を記録しました。
ピンクバット・吉田正尚。#Bs2021
— 星屑Carp&Bs (@neko_carp_Bs) May 9, 2021
ピンクバットはチャリティーオークションにかけられましたが、感謝の気持ちは実家のお母さんに届けられたことでしょう。
◆兄も野球選手
吉田正尚さんにはお兄さんがいて、名前は吉田正仁さん。[7]
年齢は、正尚さんより3歳年上になります。
正尚さんが野球を始めたきっかけは、兄・正仁さんが野球をやっていたから。
父や母と一緒にお兄さんの練習の送り迎えに付き添ううちに、正尚さんもやりたくなったのだそうです。
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