ヤクルトスワローズの監督をつとめる、高津臣吾さん。
MLBではミスターゼロと呼ばれてました!
今回は、そんな高津さんを取り巻く『家族』の物語です。
生年月日:1968年〈昭和43年〉11月25日
身 長:180cm
血液型 :A型
出身地 :広島県広島市
◆実家・生い立ち
高津臣吾さんは、秋田県広島県広島市の出身。
小学校入学前に、広島市南区比治山町(ひじやまちょう)に建築された新築マンションへ転居しました。
当時は高い建物が少なく、部屋の窓から広島市民球場がよく見えたそうです。
幼少期から市民球場へ何度も通い、赤いユニフォームで躍動する広島東洋カープの選手に憧れました。
特に「ミスター赤ヘル」こと山本浩二(やまもと・こうじ)さんの大ファンでした。
小学校は地元の、広島市立段原(だんばら)小学校へ通いました。
小学校3年のとき、地元の軟式野球チーム「段原レッドイーグルス」で野球を始めています。
広島市内の歓楽街でフグ料理店を経営する叔母に頼んで、江夏豊(えなつ・ゆたか)さんに対面できたのも、小学生のときでした。
中学校は、広島市立段原中学校へ進学。
年代は違いますが、段原中は張本勲(はりもと・いさお)さんらを輩出した名門です。
しかし、高津さんが在籍した当時の野球部は、あまり活動が盛んではなかったそうです。
高校は、自宅から近い広島県立広島工業高等学校へ進学。
ここでチームメイトになったのが、小学校時代から意識していた本格派投手の、上田俊治(うえだ・しゅんじ)さんでした。
広島県で名前を知られた、絶対的なエースだったという上田さん。
どうしたらチームの戦力になれるだろうか?
と考え、出した答えが「アンダースロー転向」でした。
高校3年次には、春夏連続で甲子園に出場。
2番ファーストとして出場を果たしたものの、最後までマウンドには上がれませんでした。
ちきしょう、この屈辱は大学野球で晴らしてやる
と、高津さんは、高校の監督から薦められた亜細亜大学へ進学。
しかし、ここでもとんでもない同級生の投手と出会います。
のちに、1990年ドラフト会議で史上最多タイの8球団から指名された、小池秀郎(こいけ・ひでお)さんです。
マジでツイてない、いつも俺が行く先にはとんでもない怪物投手がいる
しかし、高津さんの心は折れませんでした。
大学野球は3回戦制だから、2番手に入っていれば先発のチャンスがある
そう考え、2番手の位置をキープするようにしたのです。
そして「投の二本柱」として活躍した結果、東都大学野球リーグでは1990年に春秋季連続優勝を達成。
同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で東北福祉大を降し優勝を飾りました🏆
リーグ通算40試合に登板し、11勝15敗、防御率2.34、140奪三振を記録。
大学卒業後は、広島東洋カープへの入団を希望しましたが、カープは「横手投げは獲らない」という方針でした。
しかし、小池投手の視察に来ていたヤクルトスワローズのスカウト・片岡宏雄(かたおか・ひろお)さんが、高津さんに着目。
1990年度のドラフト会議にて、ヤクルトから3位指名され、プロの道を歩き始めました。
◆父親
高津臣吾さんの父親の名前は、高津年明(たかつ・としあき)さん。[1]
父・年明さんは、2013年8月6日に亡くなっています。
それから7年後の2020年8月6日。
高津さんはヤクルトの監督として、広島東洋カープと戦っていました。
広島原爆の日に負けられないカープ。
しかし、高津監督も、
父の命日にどうしても勝ちたい
と考え、8回のダメ押しスクイズなど4犠打に2盗塁を決め、貪欲に勝利を勝ち取ったのでした。
◆母親
高津臣吾さんの母親の名前は、光恵さん。[2]
1937年〈昭和12年〉頃の生まれになります。
2021年、ヤクルト監督として日本シリーズを制した高津さん。
広島の実家へ凱旋したときは、
80年間で一番うれしかった
と、光恵さんは喜んでくれました。
ちなみにこの時、光恵さんは84歳だったそうです😅
◆姉
高津臣吾さんにはお姉さんがいて、名前は早織さん。[2]
姉の早織さんは結婚していますが、現在も家族と共に、実家の近くに住んでいるそうです。
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